- 2018年5月29日 UP
- マネジメント
銘菓を守り続けたのは、「やらにゃいけん」という強い責任感。
みなさん、こんにちは。
4月より開始した新コンテンツ「次世代リーダーへ贈る、100年経営のすすめ」、今回は100年超企業当主のインタビューをお送りします。「100年企業」と一口に言うのは簡単ですが、「100年企業」一社一社には現代に至るまでの様々なストーリーがあり、各社とも山や谷を乗り越え100年という節目を迎えています。本コンテンツでは、日本に3万5千社以上あるという「100年企業」それぞれのストーリーをお伝えすることで、『100年続く普遍的な要因』を見出し、その学びを少しでも実務に生かしていただきたい、という思いで配信いたします。
今回は第二弾として、山口県山口市の100年企業「山陰堂」のインタビュー記事を掲載いたします。
100年超企業当主インタビュー その2
~創業134年 山陰堂7代目 竹原文男 氏~
明治初期より、山口の代表的なお菓子として愛されている「銘菓舌鼓」。柔らかい求肥に白餡を包んで作られた一口サイズのシンプルなお菓子ですが、その優しい味わいは多くの人々の心を掴んで離しません。山口出身の元総理大臣 寺内正毅もこの味を褒め、もともとは「舌鼓」という名のお菓子を「銘菓舌鼓」にせよと言ったことから、今の名になったそうです。
「銘菓舌鼓」の味を130年守り伝えてきたのが、和菓子屋「山陰堂」。本インタビューでは、山陰堂のこれまでのあゆみと長寿要因について7代目当主にお伺いしました。
幼い頃から感じていた“同族会社”の責任
――本日はよろしくお願いいたします。
入り口が広々としていて、趣きを感じる素敵なお店ですね。創業当時より店舗の所在地は変わらないのでしょうか?
竹原(以下、敬称略):
はい、明治時代の創業期よりこの山口の商店街に居を構えています。当時は今の半分の大きさだったのですが、4代目の時に隣の建物とつなげて、この大きさになったそうです。
――そうなのですね。ちなみに竹原社長は現在7代目ということですが、お父様から老舗のたすきを受け取るまでのエピソードを簡単にお聞かせいただけますか。
竹原:
私は、この山口の地で生まれ育ち、大学入学と同時に広島に出ました。卒業後は、そのまま広島で就職をして十数年働いたのですが、33歳の頃、当時社長だった父に「人手が足りないから戻ってこい」と言われて山陰堂に戻りました。
もともと小学生の頃から工場の手伝いをしていたので、山陰堂に戻ってからも手伝いの延長線で仕事をしてしたが、いつの間にか事務作業を任されるようになり、気付いたら代表取締役になっていました。
――竹原社長は、いつかは山陰堂を継ごうという意志を持っておられたのですか?
竹原:
“意志”と呼べるようなものは持っていなかったですね。父からも「継ぎなさい」と言われたことは一度もありませんでした。ただ、小さい頃からお店の手伝いをしていましたし、祖父も父も父の兄弟も皆お店で働いていたので、もしかしたら自分もこのお店を継ぐことになるのかな?という考えは少なからずありました。
それに、山陰堂は同族会社ですから、身内が継ぐものだと理解はしていたので、お呼びがかかれば戻ってこないといけないとは思っていました。私の世代では、従兄弟が2人お店で働いていますが、皆そういう気持ちはあったと言っています。
「銘菓舌鼓」を守りたいという想いこそが長寿要因
――「継ぎなさい」と言われずとも、必要があれば継ぐという覚悟ができていたということですね。因みに、竹原ファミリーの事業承継は、今回のように自然のなりゆきで行われてきたのでしょうか?
竹原:
私の祖父である4代目は、半ば強制的に連れ戻されたそうです。笑
というのも、創業者のあとを継いだ2代目が若くして亡くなってしまったことから、引退した初代が3代目に返り咲いたという経緯があり、さすがに高齢なので早く次の後継者を立てなければと焦っていた時に、祖父に白羽の矢があたったそうです。祖父は、東大出身で財閥系の商社で勤務する大変なエリートでしたので、山口の田舎に戻ってくるというのは一大決心だったと思います。
ただ、祖父が4代目としてお店の経営に携わるようになってから、山陰堂は大きく発展しました。「銘菓舌鼓」が多くの人に知られるようになったのもこの時期ですね。戦争とも時期が被るのですが、当時多くのお店が閉店する中、「山陰堂さんには商売を続けて欲しい」と国の役人から言われるほどだったといいます。
――4代目は商才のある方だったのですね。竹原社長の考える、山陰堂が100年続いた要因をお聞かせいただけますでしょうか。
竹原:
そうですね。もし山陰堂が普通の和菓子屋だったとしたら、既に潰れていたかもしれませんね。ただ、私達には「銘菓舌鼓」がありました。100年という年月、山陰堂が続けてこられたのは、他でもなく「銘菓舌鼓」のおかげでしょう。「銘菓舌鼓」にはありがたいことに多くの常連客がいます。そして「舌鼓だけは絶対になくさないでね」と言われるたびに、私たちも身が引き締まる思いを感じています。老舗ののれんを守らなければならないというプレッシャーも長く続いている一つの要因かもしれませんね。
あとは、後継者が明確に決まっていなくとも、「やらにゃいけん」という強い思いを身内同士で持っていたことが一番の長寿要因だと思います。
みんな仲良く、力を合わせることで問題を乗り越えていきたい。
――ファミリーの「続けよう」という強い意志を感じますね。ところで、山陰堂には家訓や家憲はあるのですか?
竹原:
これと言ったものは特に無いですね。ただ、「みんな仲良く」というのは常に思っています。眼の前の雰囲気のある掛け軸、いつの時代のものかは分からないのですが、そこにも「みんな仲良く」ということが書かれているのです。
ちょっと読みにくいですが、翻訳しますと「釜の中で豆をグラグラにていると、豆は次第にガチャガチャと飛び跳ねて、喧嘩しているように見えるけれども、どの豆ももともとは同じ畑から出てきたものなのだから兄弟じゃないか。だから、ガチャガチャやっていたとしても元は同じ兄弟なのだから仲良くなりなさいよ」ということが書かれてあります。
何かあればファミリーで力をあわせて解決していきなさい、ということですね。
――次期後継者については現状どのようにお考えなのでしょうか?
竹原:
次期後継者については全く決まっていないんです。息子世代は20代前半がほとんどなので、学生か就職したばかりの者が多いですね。
もちろん、誰かが手を上げて「継ぐよ」と言ってくれれば嬉しいのですが、それよりも本人がどのように考えるかを尊重してあげたいと思っています。私達から「お店に入って欲しい」と強要することはできません。それに、もしいずれ戻ってくるとしても、一度外で真剣に働いて、しっかりと力をつけてから戻ってきたほうが、山陰堂にもプラスになると思っています。
次の世代がどうなるか、こればかりはめぐり合わせなので、今はなんとも分かりません。ただ、私もそうだったように、息子たちもこのお店が「自分の家」という気持ちはあると思うのです。本人の人生もあるので、期待しすぎてはいけないですけれども、誰かが「やらにゃいけん」と手をあげてくれるのを心待ちにしています。
――竹原社長ありがとうございました。山陰堂の今後の発展を応援しております。
山口県山口市の100年企業「山陰堂」のインタビュー、いかがでしたでしょうか?
「銘菓舌鼓」を100年以上守り続けてきた、ファミリーの力が事業承継でも発揮されるのでしょう。
元内閣総理大臣も惚れた老舗の味、山口へお越しの際は是非ご賞味ください!
VALCREATIONは、“日本的経営を世界標準に”をVISIONに掲げる、一般社団法人100年経営研究機構
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(文責:VALMEDIA編集部ライター 遠藤あずさ)
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